激動の国際情勢をどのようにみるべきか。
本ブログで1年間にわたって書いてきたが、今回と次回の2回でこれまでの小括をしたい。そして次々回からは、その激動の世界の片隅にある私たちの日本に焦点を当てていくことにする。
国際関係は地殻変動中だ。
私たち人類は、一国中心主義と国際協調主義の間の振り子運動で近現代史を作ってきたが、21世紀は再び前者の傾向が強まり、さながら「新帝国主義」時代の様相を帯びている。中長期的安定のためには、「国際協調主義」、「法(理性)による支配」が適当である筈なのに、私たちの前には、米中新冷戦、中東情勢混沌、ロシアのウクライナ侵攻など、「武力」がモノをいう現実が存在している。人間は「進歩」「進化」しているのか、戦争(歴史)は繰り返さなければならないのか、という究極の問いかけを続けなければならない。
しかし私が、現代が激動の時代であると述べるのは、それより更にスケールの大きな視点に基づいている。人類社会は構造的変化を迎えているということである。
現在、資本主義や市場メカニズムへの不信感、自由主義や民主主義的価値の相対化、そして近代国家協調体制(ウエストファリア体制)の緩みがみられ、過去数世紀を形作ってきた近代システムが揺らいでいる。
私たちは、自由、民主主義、資本主義などの近代的価値だけでは、現在の地球規模問題への処方箋を書けないことに気付き始めている。また、市場メカニズムは、知的活動の自由化を特徴とする第四次産業革命で、終焉を迎えると言えないまでも、修正を余儀なくされている。情報技術の進歩は人類に利便性と同時に疎外性を付与し、そもそも人間とは何か、我々がAIより優れている点は何かという人間存在の価値を見つめ直す時代となっている。大変な時代である。
そのような時代に、突然、コロナ禍が世界を襲う。
2019年暮れに始まり、一時期は全世界で夥しい数の犠牲者が日々報告されるなど悲惨な状況だったが、3年ほど経ち、ワクチン開発、ウイルス弱毒化して、平静な日常が戻りつつある。それはそれで良かったのだが、この3年間、「共通の敵」との闘いで、世界は果たして何を学んだのだろうか。
実は、私はこの突然現れた「ゲームチェンジャー」に、ひそかに期待するところがあった。目に見えないウイルスを前に全世界が右往左往する経験をすれば、国際関係から「人間の生き方」に至るまで大変化が生まれるだろうと。人類は小さな存在であることが再認識され、世界を見るにあたって大きな視座、46億年の地球の歴史を踏まえた「全体知」が必要になるだろうと。
コロナウイルス出現は自然の摂理であり、必然である。たとえコロナウイルスが弱毒化して人類の脅威でなくなったとしても、その後に、別のウイルスが待ち構えている。これらは、共生社会を破壊する種である人間に対する生態系の防衛本能なのだ。台風、サイクロン、ハリケーン、旱魃、熱波など、ここ数年頻発する自然災害も同様に考えられ、人類は自然の報復をこれからも受け続ける。
それでもいま、社会を見渡してみると、経済活動から国際関係に至るまで、コロナ前の状況に戻りつつある。あるいは戻ろうとしている。私たちは、この3年間、ほとんど何も学んでいなかったということかもしれない。「コロナ禍」は結局、「ゲームチェンジャー」になり得なかったのだ。私たちを変えるには、それよりも大きな破壊的状況(Apocalypse)しかないのだろうか。