勉強することの意味はなんですか?

 生徒から「なんで勉強しないといけないのですか?」と素朴な質問をよく受けます。また、他の先生から「生徒から勉強する理由を尋ねられてうまく答えられなかった」との声もよく聞きます。ですので、今日は、勉強することの意味について、私の考えをお話ししたいと思います。

 何か将来の目標があるので特定の大学に入りたいなど具体的な理由がある生徒もいます。でも、中学生、高校生の全員がそういうわけではありません。なのに、みんなで同じような授業を受けなければならない理由は何なのでしょうか。

 私は、23年間、国家公務員として働き、様々な経歴をもった人、様々な国籍の人と付き合ってきました。そして2年前に、教育業界に身を転じました。こんな私だからこそ、次の世代に「勉強することの意味」の実感を伝えることができると信じています。「実感」というのがポイントです。どこかの本で書かれている内容ではなく、いま勉強しておくと将来よいことが待っているよという案内役を務めたい。そういう思いが、いまの私の仕事の原動力となっていますし、今日の話のポイントでもあります。

 難関校に進学して、大手企業に就職して、お金を稼ぎたい。だから勉強するのだというのは、勉強する理由として成り立ちます。だけど、生徒やその親みんなが、このような伝統的な価値観をもっているわけではありません。いまの時代に、大手企業への就職という選択肢は必ずしも魅力的に映るとは限りません。また、お金を稼げば幸せになるかというとそうでもないでしょう。自分の家族がふつうに生活できるくらいの稼ぎがあって、充実感をもてる仕事につければよいと考えるほうが、むしろ多数であり、健全であると思います。

 あるいは、ユーチューバーになりたい、プロ野球選手になりたい、という生徒が、他の生徒と机を並べて、因数分解とか、論語とか、仮定法過去完了とかの授業を聴かなければいけないのはなぜでしょうかという疑問もあります。プロ野球選手のような極端な例を持ち出す必要もないかもしれません。家業の商売を継ぐ生徒、地元の小さな会社や役場に就職する生徒が、果たして、中世欧州史を勉強する必要があるのでしょうか。「いやあ、学校で勉強したことのほとんどは忘れちゃったし、いま役に立っていないよね」と笑う大人たちの言葉を聞いて、子どもたちはどういうモチベーションで授業に臨むのでしょうか。

 それでも勉強は将来役に立つのだと言うときに、私の持っていた一つの答えはこうでした。人生は他の人との競争が続くレースのようなものだから、社会人になって生き残るための競争力を磨くために受験で頑張らないといけない。社会には理不尽、不公平なルールがあって、どんなに頑張っても望む結果にはならないこともあるけれど、少なくとも受験は公平で、頑張った生徒は、成績を伸ばすこともできるし、志望校合格のチャンスも高められる。だから頑張れ、そして成功体験をもって社会に飛び込め、と生徒を鼓舞してきたのです。

 でも、このような考え方は勉強する理由の一面にすぎないと、いまは考え直しています。私は、高度経済成長期に、ベビーブーマーとして競争相手もたくさんいる中、人一倍努力して、よい成績をとって、偏差値の高い学校に進学し、安定的な就職もしたけれど、それは私の人生であって、そういう生き方をすべきだ、だから十代の頃から周りと競争して勝利を勝ち取れと、すべての生徒に促すことはしたくはありません。

 受験競争、就職競争を勝ち抜かないと叶わないような夢をもっていて、そのためには努力は厭わないと頑張る生徒に対しては、私は喜んで、教育者として厳しく指導します。しかし、多くの生徒はそうではありません。難関大学、いや普通の大学に進学する必要すらない将来設計をしている生徒がなぜ高校に進学して、昔、生徒だった親世代の「学校で勉強したことってほとんど忘れたよね」という自嘲を聞きながら、いやいや勉強しないといけないのはどうしてでしょう。

 いまの私は、勉強することの意味について尋ねられたら、次のように答えています。

 幸せな人生を送るためだと。ベタな表現かもしれませんが、幸せな人生、心豊かな人生を送るために勉強するのです。なぜ勉強すれば幸せな人生を送れるのか説明いたしましょう。

 生きることは、とても難しいです。何十年と生きてきた大人なら実感できるでしょうが、人生はとても複雑です。夢や理想をもち、それに向かって努力しても、自分の力では制御できない予期せぬ出来事が起きて、軌道修正を求められることも多くあります。時代背景や人の成長によって、考え方も変化しますし、その時その時の決断をしていかなければならないのが人生なのです。

 人生とは、判断、決断の連続です。進学、就職、結婚などの大きな選択だけではありません。今日この本を読もう、この店に行こう、この人に会おう、あるいはこの人には会わないようにしようなど小さな選択の連続なのです。その選択の連続で、その人の人生観が形成されていきます。社会には誰一人まったく同じ考え方をもつ人はいないのはそういうことなのです。

 だから、その時その時の自分の身の周りの状況を客観的に冷静に捉え、その中で自分はどのような選択をすべきなのかを判断するという「見極める力」が、幸せな人生を引き寄せるためにとても重要になってくるのです。幸せな人生というのは人それぞれ内容が異なります。自分の価値観、つまり自分の尺度で、夢や理想を思い描き、近づこうとしているときが心豊かな時間だと思うのです。

 自分の意思で選択することは簡単なようで難しい。風が吹けば飛ばされるような小さな弱い個人は、社会の大きな流れにのみ込まれやすいからです。社会の同調圧力に屈しやすいからです。左に行くことが自分のためにはよいとわかっていても、周りの人が右と言えば、それに従って右に行ってしまいがちなのが、か弱き人間なのです。その結果、自分の人生観に背くような生き方を強いられることになってしまっても。

 それでも、移り変わる社会の常識や社会観のなかで、自分が守らなければならない唯一の対象は自分の人生をどう生き抜くかということを忘れてはなりません。社会をよくしようとか、まして国家をよくしようとか大それたことは考えなくてもよい。自分が責任をもって考えるべきは自分の人生だけでよいのです。

 ここまでくれば、今日の私の話の結論がみえてくると思います。

 さきほども申しましたが、社会の大きな考え方に抗って、自分を貫くというのは難しいことです。でも勉強して「見極める力」を養うことができれば、それができます。

 勉強は、日常と離れた世界とつながるということが肝です。だから、教室は、外の世界の雑音を遮断して、別の時代、別の場所につながりやすい空間になることが理想です。

 安易なネットニュース、SNS、似たような意見をもつ大人たち、友だちとの会話から少し離れて、別の角度から物事をみつめることが、多様性、複眼性、柔軟性を養うことに役に立ちます。教室ではスマホの電源をオフにして、論語の内容に思いを馳せよう。因数分解の世界に浸ろう。そして外国語で物事を考えよう。そうすることで、考え方の幅が広がり、生きる上での知恵を多く身に付けることができます。人生は長く、様々な困難に遇うだろうから、生き抜くための武器を装備するために学ぶのです。

 現代は、人間以外の「知性」の発展が驚くべきスピードで進んでいます。この半世紀で、パソコンの出現、インターネットの出現、IoTやAIの発展をみました。最近ではチャットGPTなるものも現れて、私たち人間の知的活動領域がどんどん浸食されているような気がします。作文や英訳など、AIやチャットGPTに任せたほうが出来がいいとなると、勉強しなくてもいいやとなってしまう人が出てくるのも無理はありません。

 しかし、ここで思い出していただきたい。

 勉強とは、事象の暗記、知識の吸収、情報の収集が本質ではないのです。計算や翻訳それ自体も本質ではありません。わかりやすい形で役に立つ実学以外に価値を見出さないのであれば、勉強の効用をあまりにも小さく捉えていると言えるでしょう。

 実学を学ぶにしても、古今東西のエリートたちは、古典を読んで基礎教養を身に付けることから勉強を始めています。東洋では四書五経を諳んじることが学問の第一歩ですし、欧米トップ大学では一般教養(リベラルアーツ)に重きが置かれているのは千年前も現代も変わっていません。時代が変わっても、基礎的な教養と論理的思考力の習得に重点が置かれるという教育の本質は変わっていないのです。それらをしっかり身に付けた者が、自分の力で人生を切り拓き、結果として新しい時代を切り拓いてきたのです。

 勉強とは、そういうことです。変わってゆく新しいもの、手軽に役立ちそうなものを追い求めることは本質ではなく、古くから変わっていない真理を追求することが学問なのです。それが、生きるための力を身につけることになるのです。自分を取り巻く状況が日々変化しても、勉強で自らを鍛え上げた者は、固い軸をもっており、善い、正しい、美しいと信じた方向に自分の歩みを力強く進めることができます。豊かな生き方、幸せな生き方を送る方法を学ぶことが、勉強の本質なのだということが、私が今日最も伝えたかったことです。

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