今月、沖縄グローバルセンター(OGC)にて投稿したコラムを貼らせていただきます。
2001年9月11日、米国ニューヨーク。
私は、マンハッタンのコロンビア大学で、ミクロ経済学の授業を受けていました。外務省入省4年目の国費留学生で、国際関係全般、専門の中東政治経済のカリキュラムがスタートしたばかりの頃でした。
学生300人くらいが座れる大教室が5つほど並ぶ講義棟の一階。
私のいた教室の外のホールが急に騒がしくなりました。そこは、カフェテリアのように丸テーブルがいくつも置いてあり、学生たちが授業の開始を待ったり、友人と談話したりする憩いの場です。まだ暑い時期なので、教室はドアや窓を閉めて冷房をガンガン付けていたのですが、それにもかかわらず、ホールに集まる人たちのどよめきが、教室内の私たちの耳にもしっかりと届いてきたのです。
授業を邪魔されて、経済学の教授-たしか、すらっとした四十代くらいの白人女性だったような-は、たまり兼ねて、教室のドアを勢いよく開け、外の騒がしくしている学生に注意しようとしました。ですがその瞬間、その教授も、教室の中にいた私たち学生も、なにか異様なことが起きているのだということを瞬時に察することになるのです。
ホールには大型テレビが設置されていて、その前に、100人を超える学生や大学職員が座って、その画面をみつめていました。椅子ではなく、薄いカーペットの床に直接-日本人的に言えば、体育座りで-大勢の人たちが、固唾をのんで、黒煙をあげるワールドトレードセンターの映像をじっとみていたのです。
画面に映るこの信じられない出来事は、ここコロンビア大学のすぐ近くで、まさにいま起きていること。教室にいた私たちも次々と室外に出て、そのホールのほうに移り、やがて、2機目の突入と、超高層ビルの崩壊を、絶望的な気持ちで見続けることになったのです。崩壊音は、テレビ音声というよりは棟の外から聞こえてきたような気がしましたし、焼け焦げた臭いも鼻孔の奥にかすかに感じました。
アメリカ同時多発テロは、4機の旅客機が、イスラム原理主義組織アル・カーイダのメンバーによってハイジャックされ、約3000人が亡くなった米国史上最大のテロ事件でした。現代史の転換点の一つとも言えます。
大学は臨時休講が続きました。大学関係者の何人かが犠牲になったと聞きましたが、私の心に残ることは、その後のニューヨークの異様な雰囲気です。
その年の8月、2年間暮らしていたエジプトから米国に移った私は、エジプトにはない自由な社会を満喫しようと意気揚々としていました。しかし、わずか1か月でこの悲劇を目の当たりにして、米国社会は、上から下まで、右から左まで、一気に「戦時中」の雰囲気に包まれるのです。ハロウィン・パーティーの代わりに政治集会。クリスマス・ツリーの代わりに星条旗。あれだけ不人気であった米国大統領への支持率が一気に上がり、アル・カーイダを倒すためのアフガン攻撃をほぼ百パーセントの国民がサポートしました。大学の授業にも、テレビの討論番組にも、ふと入ったレストランの隣のグループの会話にも、聞かれる発言は、9/11を引き起こした敵組織への憎しみと、その組織を打倒する戦争への無条件への支持表明だけでした。結局、私が米国にいたのはその1年間だけでしたので、異様な雰囲気の米国しか私の印象に残っていません。
テロリズムは、いかなる場合でも許されるものではありません。
しかし、暴力的行為はどこまでがテロリズムと呼ばれて、あるいはどこまでが許される行為なのか、私たちは相対的に考えなければなりません。
反米意識を長年募らせてきたアル・カーイダ、そしてそれを匿ってきたタリバン勢力を殲滅するため、9/11の後に、米国を中心とする西側連合はアフガニスタンを攻撃しました。タリバン政権を打倒するための戦闘は、圧倒的な火力の差から短期間で終結しましたが、西側の思い描くような新国家建設はうまくいかずに、多数の無辜な民間人が犠牲となる戦争はずっと続きます。
西側連合に振り回されてきた国は、この地域に他にも多くあります。
イラクは、湾岸戦争での敗北後もかろうじて延命していたサダム・フセイン政権でしたが、反米姿勢を危険視され、やはり西側連合による軍事介入を受けました。こちらも、フセイン政権を打倒するための戦闘は短期間で終結しましたが、新国家建設は同様に迷走し、多数の民間人が命を落とす戦争は続いています。
奇しくも私は、9/11の目撃者であるとともに、その後に報復を受けたアフガニスタン、イラクの地に、追いかけるように赴任しています。運命的なものを感じますが、日本の外交官として、平和構築、復興支援業務にあたるなかで、暴力の連鎖をずっと間近にみてきました。9/11は何千人もの市民が命を落とす痛ましい事件ではありました。しかし、それには歴史の前後の文脈があることも忘れてはなりません。なぜ9/11が起きたのか、そしてその後のアフガン戦争、イラク戦争でどれだけの戦争被害があったのかを理解しないとなりません。アル・カーイダが仕掛けた事件だけがテロリズムとして非難され、その前後の暴力的行為が正当化されるということでよいのか問い続けなければなりません。
さらに私は、アフガニスタン、イラクの間に、イスラエル赴任も経験しました。ここでも、暴力の負の連鎖がみられています。イスラエルにはイスラエルの論理があり、パレスチナにはパレスチナの論理があるのでしょうが、お互いに正義を掲げるあまり、対立し続け、数年ごとに戦火を交える歴史の繰り返しなのです。そして、いつも犠牲となるのは、政治的信条とは無縁の慎ましく生きようとしている弱い市民たちなのです。
中東の専門家として、最初にエジプトに渡った四半世紀前の私がみていた風景と、いまの風景。実はあまり変わっていません。いや、むしろ悪化していると言えます。この四半世紀の国際社会の努力は無駄であったのか。人類はなぜかくもお互いを憎しみ合い、殺し合い、そして周りの人たちは当事者の喧嘩を抑えることができないのだろうか。私は虚無感のなかで自問してきました。
私が外務省を辞めた2021年、アフガニスタンでは長年駐留していた米軍が完全撤退し、それと同時にタリバン勢力が首都カーブルを制圧しました。タリバン政権が20年振りに復活し、時計の針が逆戻りしたのです。
また2年後の2023年の今年、パレスチナ自治区のガザ地区を実効支配するハマスと、イスラエル軍との間で本格戦闘が始まりました。イスラエルと周辺アラブ諸国・地域との衝突は、イスラエル建国以来、絶えず起きていますが、規模や被害者数の点から、今回の戦闘はとりわけ深刻です。この半世紀以上、国際社会による中東和平に向けた努力がを払われてきましたが、事態は改善どころかむしろ悪化しています。
直接、これら事態の推移をみてきた私としては、やはり自問せざるをえないのです。
私たちは滅びるまで戦争を繰り返すのか。同じことの繰り返しではないか。
科学技術の進歩で生活は便利になり、モノは溢れているというが、私たちの生活は果たして豊かになったといえようか。人類の歴史は進歩しているといえるのだろうか。
各国のリーダーたちが何か行動しても、ましてや識者が世界の情勢をあれこれ論じても、目の前の世界はあまり良い方向に向かっていないように思えます。私が塾で日頃顔を合わせている次世代の若者たちが生きるこれからの世界のことを想像すると、暗澹たる気持ちにならざるをえません。
私たちは、もう少し、様々な角度から情勢を捉える努力をしてもよいのではないかと思うのです。そうすれば世界は異なるように見えるし、私たちの行動も少しずつ変わってくるのではないでしょうか。
世の中の常識を疑うことから始めましょう。
たとえば、古代の人々が、虹をみたとき、あるいは地震を体験したとき、彼らは、それらの現象をどのように理解しようとしたでしょうか。
いまの私たちであれば、空気中の水滴に太陽光が反射するとき、その波長の屈折率によって七色に変化することから虹が出現するということ、そして、ゆっくり移動するプレート間の摩擦が限界点を越えて、片方のプレートがいっきに跳ね上がることから地震が発生するということを、科学的に理解しようとしています。しかし、古代の人々は、このような説明ができません。したがって、これら不思議な現象を神の仕業であると説明するのです。つまり私が述べたいことは、いまの私たちにとって当たり前のこと、自明のことと思っている常識も、百年後、千年後には変わっている可能性が大いにありうるということです。
世の中が全体として良い方向に変わらないのであれば、既存の思考枠組みに捉われない発想を排除しないことも重要ではないでしょうか。そのような思いから、私は、小さな市民として、ささやかに生活し、ささやかに考えることから始めようと決意しました。2021年の夏。23年間の役所勤めを終え、自分の塾を創設したときのことでした。