この数年のIoT、AI技術の進歩は目を見張るものがある。5年前の自分が、現在の生活様式を想像できなかったように、現在、5年後のそれを想像することは困難だ。AI技術は加速度的進歩、指数関数的進歩を遂げるので、過去5年間より今後5年間の変化のほうが、さらに劇的であろう。ドローン、3Dプリンター、空飛ぶ車などは「一家に一台」の時代になっている可能性も高いし、そもそも、いまの私たちには思いもつかない便利なものが出回っているのだろう。
これらIoT、AI技術、ロボットは、私たちの生活の豊かさに大きく寄与するとも言えるが、私は「豊かさ」という言葉を大切に考えたい。「豊かさ」と「便利さ」は同じではない。「豊かさ」とは物理的な面だけでなく、精神的な面も考慮しなければならない概念である。
農業革命以前の人類は、定住ではなく、小さな集団の単位で移動する狩猟生活を営んでいた。その頃は、衣食住の確保という生命活動そのものの苦労も多かっただろうが、当時に関する書き物などを読むと、ひょっとすると、現代人よりも「豊かに」、あるいは「幸せ」に生きていたのかもしれないとも考えることがある。「豊かさ」、「幸せ」とは多義的な概念だが、少なくとも、物質的な「豊かさ」は一面にすぎない。私たちの祖先の狩猟民族に関して、戦争、うつ病、自殺が、現代人よりもはるかにマイナーな出来事であったようなので、精神的には「豊かに」暮らしていたのだろう。
以上のように考えていくと、いま起きている情報技術革命の人間存在への影響を決して過小評価はできない。
一般に、加速度的進歩で知的活動の自動化が進んでいる現代の現象を、第四次産業革命と呼ぶ向きもあるが、これは、18世紀の一次(石炭燃料を用いた軽工業の機械化)、19世紀後半の二次(石油燃料を用いた重工業の機械化・大量生産化)、1970年代の三次(機械による単純作業の自動化)とは、較べ物にならない程度の人類社会へのインパクトがある。
三次、あるいは四次の前期で、限界費用の逓減、大量雇用の限界がみられ、また利子率がゼロ、あるいはマイナスとなる状態が恒常化するなど、資本主義の終焉ともみられる現象が起きているが、四次が進むと、知的活動の主役が人類からロボット、AIに交替する。これは、資本主義の終焉のような生温い出来事ではなく、人間さ」を失っているのだ。
AIはやがて人間のコントロールを離れて、AIより賢いAIの開発をAI自身が行うようになるシンギュラリティに到達する。そうなる前に、私たちは、人間存在の価値を意図的にみつめ直さなければならない。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べた。AIが越えられない人間能力は何かを真剣に考えなければならないときが来ている。