コラム・教育への思い(後編)(OGC-21)

(前編からの続きです。)

 前編で述べましたとおり、公教育は、すべての個人がその社会の共通認識を身につけるという意味で重要な役割を果たしています。さらに、公教育が目指すべきは、意味空間を共有する社会の中のすべての個人が社会的価値を実現する自由を享受するとともに、他人の自由も尊重できる公共意識を有することであり、このような社会が実現すれば、その「社会」にとっても、「個」にとっても望ましい状況であるといえます。

 ですので、この意味空間を同じくする社会の実現という点での学校の勉強の役割は強調してもしすぎることはありません。学校の勉強について「こんなこと将来何の役に立つの?」という生徒の素朴な疑問、「受験終わったら全部忘れちゃった」という保護者の自嘲をよく耳にするのですが、私は、学校で学ぶという共通体験は、社会の一体感の維持、自治の機能にとっては不可欠な装置であると確信しています。

 日本人同士だと言葉にしなくても通じ合うものがあると感じたり、あるいは、日本人の考えていることはよくわからないと外国人から首を傾げられたりするなどの経験をもっている人も多いと思いますが、その根底には、日本人が同じ公教育を受けているという共通体験があるのです。確かに、多項定理、運動方程式、論語や古今和歌集は、日々の生活の中ではっきり顔を出しません。しかし、ひらがな、九九から始まり、漢字、分数、因数分解と続き、枕草子、メネラウスの定理と発展していく同じパッケージの教育を受けた個人で構成される社会に、共通認識、共通の意味空間が構築されていること、これら共通認識が存在するからこそ共同体の自治がうまく機能するのだということを、私たちは忘れてはいけません。

 このように、公教育が基礎的装置として機能していることを前提にして、次に、その上に積み重なる教育というものを考えていきたいと思います。公教育の外にある教育は、大学や私立校や塾、予備校など多種多様です。私教育の教育機関はそれぞれ理念をもち、生徒、保護者に自らの魅力を訴えるわけですが、それでは一体、どのような教育理念が「よい」ものといえるのでしょうか。

 これには先述したように絶対的な正解はありません。それぞれの信念に基づき多様な指導をすればよいのであって、教育機関の数、いや教師の数だけ、考え方も様々といえます。教育者は、こうあるべきだと規範的に語るのではなく、私はこうしたいと希望を語ればよいのです。したがって私も、一人の教育者として、私の提供する教育はこのような理念をもっていると語るだけで十分なのです。私の教育は私の教育、他の人の教育は他の人の教育。それだけです。私の考えに共感してくれる生徒だけが私の塾に来てくれればいいし、私の授業を受講してくれればいいのです。私教育は多様であり、選択の自由もあるので、公教育と較べると、それぞれの理念を伸び伸びと語ってもよいという純粋さをもっていると思います。

 ようやく私の教育について語る準備が整ったと思います。

 私が大切にしていることは、縁あって自分が関わることになった子どもたちに、その社会の中で心豊かに生きていくための「道具」を与えたいということです。ではその「道具」とは何のことでしょうか。一つではなく複数の能力の組み合わせですので、順番に説明していきましょう。

 まず、知識や技能などの基礎学力、探求心、競争力や粘り強さなどをあげたいと思います。なぜ最初にこれらを列挙したかというと、学校学習、受験勉強を通して直接的に強化される能力であり、分かりやすいからです。テストで良い結果が生まれれば自己肯定感も高まりますので、受験勉強という過程は、子どもの成長にとって大変意義深いものなのです。実際、私は中学生・高校生対象の個別指導塾「かんざわ英進塾」を3年前から運営していますが、生徒が通う主な理由が、学校の成績を上げて、受験で成功することである以上、塾の役割も、これら目標を達成するためのサポートに他なりません。私の塾での指導の95%は、勉強指導、勉強方法指導であり、この点では、他塾となんら差はなく特徴的にみえないかもしれませんが、受験は合格不合格という短期的な結果を超えて生徒の成長に大きな意味をもっていると信じているからこそ、受験指導に力を入れることに何の躊躇はありません。もっとも、この領域であえて私の特徴を際立たせるとすれば、目標設定力と計画策定力の強調です。これらは生涯ずっと必要になる能力であり、中学生、高校生の頃に十分訓練できる技術だからです。

 さて次にあげたいのが情勢分析力です。これからの社会はとても複雑なものになります。これまで人類が経験したことのないスピードと規模で世界は変化し続け、1年後の未来ですら誰も正確に予測できません。不確実性、不安定性の時代であり、価値基準もますます多様化していくので、自分の置かれた状況、周りの環境をどのように認識すべきかがとても難しいのです。私は、複雑なものを単純化することなく複雑なまま受け入れ、自分の最初の認識が間違っていたら素直に訂正することが大切だと考えていますが、行動に移る前の現状を把握する力、すなわち情勢分析力を高校生の頃から育んでいくことが効果的であると信じています。誰もが受ける公教育では、その社会の共通認識がひととおり身につきますが、私の生徒にはさらなる付加価値を与えたい。それは共通の意味空間の中で起きる変化への「感度」、共通の意味空間の中に生きる他者への「共感力」を上げることです。「感度」が高いほど、大局的、客観的、複線的に状況をみつめることができますし、柔軟性、修正力も増します。また「共感力」が高いほど、多様性、包摂性、寛容性の富む人格が形成され、心豊かに生きることができると思います。

 心豊かに生きていくための「道具」として最後にあげたいのは、自分の「軸」を持つことです。何もかも相対的にみえるこの不安定な時代に心豊かに生きるためのカギは、他律的、受動的、手段的な生き方ではなく、自律的、能動的、自己充足的な生き方を志向することです。そのためには、周りの様々な価値観や考え方に必要以上に惑わされずに、強くてしなやかな生き方をするための自分の「軸」をしっかりもつことが肝要なのです。自分の「軸」、言い換えれば、自分の行動規範、主観的価値観を確立していくことが学問のもつ意義であり、そのような学びを生徒が追求することをサポートすることこそ、私の教育理念の核になっているのです。

 以上のように考えると、私の教育は長期戦です。幸いなことに、今春から私は大学でも授業を受けもつことになりました。塾と合わせると、下は12歳の中学一年生から上は22歳の大学四年生まで、幅広い年齢層の生徒たち、学生たちと関わることができるようになりました。かつての塾の教え子が、今度は大学で私の授業を受講するというような状況も生まれています。これは、一人の子どもの成長を、中学生から大学生時代まで見守るということであり、嬉しくもあり、同時に責任感も覚えます。塾の先生、あるいは大学授業の1コマの指導教官としての立場ですので、関わり方はごく限定的ではありますが、それでも稀少な立ち位置に自分が置かれていることを自覚しています。

 ルソーは『エミール』のなかで、子どもの成長過程を、自分の欲求を自覚する第1段階、生存的欲求が社会的欲求に変わる第2段階、社会的欲求が社会的価値に昇華する第3段階の3つに分けたことは前述したとおりです。段階ごとに、子どもを見守る大人の役割は変わりますが、できれば親以外の大人が長期的に一人の子どもを見守ることが理想的であり、そのことについて、私の思いも絡めながら説明していきたいと思います。

 まず、「かんざわ英進塾」の教師としての思いです。ここでは学校学習指導、受験指導が中心になっていますが、『エミール』での第2段階、つまり中学生、高校生は、社会的欲求を実現するためには一定の知識や技能が必要となることを知り、それらを懸命に身につけようと努力する時期です。前にも述べましたが、教師は必要以上に介入してはいけません。学び方だけを伝えて、中身は生徒が主体的に学ぶことが重要です。

 因みに、私は、英語、数学、現代文、古文、漢文、日本史、世界史、地理、政治経済、倫理、物理、化学、生物、地学、情報、小論文とすべての科目について日夜勉強して、生徒の質問には何でも答えられるようにしています。大手の予備校などは、現代文は〇〇先生、英語は〇〇先生、と細分化されているのが常ですが、私の塾では、他の数名の先生の助けを得ながらも、基本的にはすべて私自身が説明できるようにしています。その結果として、受け入れ可能な生徒数は限定的であったり、科目によっては難問を即答できないケースも生まれたりしますが、これら短所を上回る長所があると信じているからこそ、このスタイルをとっているのです。

 長所とは何か。それは、私自身が生徒と同じ境遇に近づくことです。生徒が質問してきた微分積分の難問をはじめからスラスラと解説できなくてもよい、私は専門学者を育成しているのではなく、たかだか受験勉強を指導しているだけだと割り切っています。むしろ、しばらく一緒に悩んで、どこで躓いているのかを一緒に発見し、これから何をしていけば成績が伸びるのかを一緒に考える存在のほうが、この生徒にとっては大切ではないでしょうか。一人の生徒の勉強すべてに向き合い、その生徒の考えていることや、強み弱みを把握しているからこそ、勉強方法や進路についてアドバイス、サポートができるのです。この点、果たして、例えば現代文の先生が一人の生徒に対して大学受験先や就職先について責任をもってアドバイスできるのでしょうか。保護者によく言うのですが、私は、生徒のすべての動きを横で見守り、必要なときにアドバイスし、ゴールまで併走する「伴走者」が必要であると感じています。そのような存在に私がなることで、他の塾にはない付加価値を生み出しているという喜びこそ、私の塾運営の原動力となっているのです。

 そして次に、琉球大学の講師としての思いです。『エミール』での第3段階、つまり大学生は、自分の目指す価値の明確化、具体化を図ろうとしているのですが、私は、彼らに様々な視点や価値観を提示して、複雑に考えてもらおうとしています。結果、情勢分析や価値判断でさらに混乱が生じ、その中でも解を見つけ出そうと藻掻いている姿を多くみてきました。私は「国際協力論」を担当しているので、将来は国際的、公共的な仕事に就きたいと相談をしてくる学生が集まるのですが、私が大学教育で大切にしていることは、不安定な状況で、正解が決まっているわけでもない混沌とした現代を生きる新世代が、自分の生き方の軸を探求することなのです。

 これに関連して、琉球大学での試験監督者としての長い時間にあれこれ考えていた際、「中高大一貫のリベラルアーツ教育」という考えがふと脳裏によぎったことも書き留めておきます。

 リベラルアーツ(Liberal Arts)とは、ギリシア・ローマ時代からルネサンスにかけて一般教養を目的として発展してきた諸学科です。西洋世界の大学では、文法・修辞・論理・算術・幾何・天文・音楽の自由七科として知られてきた体系であり、日本の大学でも、専門的学問に入る前の、あるいは対比する形での一般教養として重視されてきました。特にここ最近では、文理融合的、学際的な学問を指すものとしてリベラルアーツがトレンドになってきているとさえいえます。

 元来、学問とは、人間を束縛から解放するための知識や、生きるための力を身につけるための手法を学ぶものであり、言い換えると、教育とは、社会全体や親、教師などの大人が、子どもに対して、社会を自由に生きるための道具を与えることであると解釈しています。目先の進学や就職は、その生徒、学生自身の将来が切り拓かれるうえで重要ではありますが、より大切なことは、将来豊かに生きるための教育であり、そのひとつの解がリベラルアーツではないでしょうか。そしてその際に、特定の教育機関や教師が、一人の子どもが中学生から大学生に成長する過程で、一貫して学問を見守ることが理想的であると私は思っています。

 実際、昔から、一人の子どもが大人に成長する過程では、親以外に、ずっとその子どもを見守る大人の存在が必要だと言われてきました。学校の先生では不十分です。学年が上がれば担任は替わりますし、学校が変われば関係は希薄になります。その点で、ずっと見守ってくれる大人の存在として例えば、私が子どもだった頃は、親戚の叔父さん叔母さん、あるいは近所の「雷おやじ」のような人たちがいました。反抗期に親不孝したとき電話で叱ってくれた親戚の叔父さん、夜中に悪ガキ同士でギャアギャア騒いでいたとき怒鳴ってくれた近所の「雷おやじ」。物事の判断基準が定まっていない子どもたちに対して一定の社会規範の方向性を示す大人が近くにいた時代でありました。

 ここで私はノスタルジックになって濃密な親戚関係や近所付き合いがなくなったと嘆くつもりはありません。社会のカタチは時代の変化とともに移り変わるのは自然ですので、その時代に合った大人の存在があればよいのです。共通の価値観が見出しやすく、血縁社会や地域コミュニティの掟のようなものが機能している時代は、子どもを一定方向に導く叔父さん、雷おやじのような強い第三者の存在が有効だったのかもしれません。しかし、いまは価値観も多様で、生き方も多様で、社会の行く先が不透明、不確実な時代です。ある特定の大人が「これが正解だ」と子どもたちを主導することはなかなかできません。むしろ、複雑な状況を複雑なまま捉え、その環境の中で、自分にとって何が望ましいのかを自分で考えることのできる子どもを育てていかなければならないのです。これまで何度も説明したように、置かれた状況でいまの自分にとっての最善解は何かを探す力が必要であり、そのための判断基準、自分の軸を確立することが成長の過程で重要です。そのように考えると、子どもが苦しみ悩み自分で答えをみつけていくという長いプロセスを遠くから静かに見守りつつ、いざ必要なときに側面から助言をできるような大人こそが求められているのだと信じています。

 そのような大人になりたい。自分の実力を謙虚に受け止め、生徒たちと一緒に成長していく「伴走者」でありたい。これが私の思いであり、塾の理念にもなっています。教育者に転職してから3年が経ったいま、私の教育に対する思いをまとめさせていただきました。

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