民主主義というシステムについても、注意が必要である。
ヒトラーも、プーチンも、民主主義体制のなかで正統に選ばれたリーダーである。当時のドイツ、ロシアは、私たちの民主政治とは異なるのだ、独善的指導者の暴走を抑えられなかった彼らのシステムが問題であるのだというのであれば、私たちが民主主義国家と呼んでいる諸国の実情が果たして理想的な状況にあるのかどうかをよく考えてほしい。
民主主義システムでは、多数派の民意に支持された権力が、少数の弱い存在に我慢を強いがちである。自分の信念が正しいと思っていても、それがその社会で少数派の意見であれば、その声は大きくならない。
もっとも人間存在は完全でないから、完璧な政治システムなど作られようがないのも事実だ。ゆえに、よく言われるように、最善ではないが次善の政治システムである民主主義を私たちは採用しているにすぎない。
個人の自由についても、多数の人間で構成される社会のなかでは当然に制約がある。自由、権利は、他者の自由、他者の権利を損なわない程度に保障されるにすぎない。そして、両立し得ない諸権利の保障のバランスをどこでとるのかという問題に、簡単な共通解はない。
「法の支配」という概念についても、「人(専制君主)の支配」と較べれば、人権が恣意的に侵されにくいという点では進歩しているようにみえるが、その「法」の中身が問題である。ごく単純化して言えば、民主主義システムでは、立法機関の多数決で定められるものなので、これも安心できるものではない。
要するに、前コラムで論じた資本主義は言うに及ばず、現代人にとっては普遍的な概念と思われている自由主義、民主主義、法の支配というような価値観ですら、絶対的なものではないということである。
価値観などすべてが相対的なものだ。
このように書くと、ニヒリズムと捉えられてしまうかもしれないが、私が本コラムを読んでもらいたい若い世代に伝えたいことは「すべての常識を疑え」ということなのである。
人間が他の動物と大きく異なる特徴は、高度な言葉を使い、認識・ストーリーを共有して、地理的・時間的な広がりをもつ文明社会を作ることができる点である。ゆえに共通のストーリーの内容を常にチェックしなければならない。ここで例示した資本主義、民主主義、自由主義、法の支配という概念は、人類史の中ではごく最近採用されているにすぎない。これらに替わって多数の人々が共有する概念が果たして現れるのか、現れるとしたらいつなのかは分からない。それでも、私たちは個々人の生命と生活と尊厳が守られるような理想的な社会にするために、普遍的な概念として皆が守らなければならないものは何なのか、不断の努力で追求しなければならない。