コラム・小さな小さな物語(前篇)受験生にかける言葉(OGC-22)

 高校を卒業し、大学へと進学、あるいは他の世界に飛び込む塾生の姿をみつめて、私がいま思うことを前篇、中篇、後篇の3回にわたって書きたいと思います。

 社会の「大きな物語」に呑み込まれずに、一人ひとりの「小さな物語」を大切にしてほしい。そのような思いで、「小さな小さな物語」というタイトルにしました。

 いま、私たち先生は祈るような思いで、受験生たちの最後の「追い込み」をそばで見守っています。

 彼らは1月中旬、「共通テスト」で自分の力を発揮してくれました。私も毎年全科目を解くのですが、かつての「共通一次」、「センター試験」と較べて、いまの「共通テスト」は、質も量も相当厳しい。体力も精神力も発展途上の高校生たちが、あれだけハードな2日間8科目の真剣勝負に挑んでいる姿に、いつも私は感動を覚えています。

 でも、これは長い受験期間の始まりにすぎません。これからがヤマ場です。私大の個別受験があり、国公立の二次試験が待っています。それらは科目数こそ少ないものの難度は高く、細かな対策勉強が必要になります。こうして「一般入試」のレースは3月中旬まで続きます。

 文部科学省の発表した調査によれば、前年度入試のうち「一般入試」は47.1%、「総合型選抜」が22.2%、「学校推薦型選抜」が30.7%であるそうです。以下では、後2者をあわせて「推薦・総合型」と書くことにしますが、「推薦・総合型」は、高校の推薦書や自身の志望理由書などの書類選考を経て、面接や小論文などで前年の12月くらいまでには合否が決定されるものがほとんどです。

 私の塾が開塾した頃、大抵の受験生は「一般入試」を受けていました。ほんの2、3年間で、ここまで縮小しているのに驚いています。国公立、特に難関大であれば、まだまだ「一般入試」の割合は大きいものの、塾で教えている身としても、大きく様変わりした実感をもっています。

 ここで断っておきますが、私は、「推薦・総合型」を否定するつもりはありません。時代の変化に伴い、受験制度も多様化するのが自然ですし、ペーパーテストでは評価されにくい人材でも、それぞれの長所を生かし、望む大学に入る可能性が増えるので、入口を複数にすることにはむしろ賛成です。

 しかし、「推薦・総合型」の定員数がここまで急拡大すると、同程度の学力の生徒であっても、「推薦・総合型」を選んだ生徒が前年11月頃に合格するのを横でみながら、「一般入試」受験生は、正月休み返上で勉強を続けなければならないという状況が珍しくなくなっているのです。

 塾にもいますが、明るくハキハキしていて学校での「先生受け」がよさそうな生徒は、素晴らしい内申点とコミュニケーション能力の高さで軽々と難関大学の「推薦・総合型」を突破したりします。運動神経に秀でていて部活動でリーダーシップを発揮してきた生徒もまた同様です。彼らは、自分を客観視し、目標を具体的に定めて、計画的に学校生活を送ってきたのですから、その努力は誉めてあげるし、志望大学に合格したときは私も一緒に喜ぶのですが、一方で、「一般入試」に進む生徒たちは、その間も厳しく長いレースを戦い続けているのです。

 今回のコラムでは、特にこの「一般入試」受験生たちに焦点をあてて、私がかけてあげたい言葉を書こうと思います。

 受験とは、多くの人にとって、人生のなかで最初に向き合う真剣勝負だと思います。

 人は誰でも、長い人生のなかで何回か真剣勝負をしなければなりません。勝負ですから、勝つこともあれば負けることもある。でも、どちらの結果からも私たちは貴重な学びを得て、次に来る勝負に備えるのです。

 私たちの社会の競争や勝負は必ずしもフェアなものばかりではありません。いやむしろ、社会的、経済的、政治的立場などで有利不利がはじめから存在するアンフェアなもののほうが多いといえるでしょう。この点、「一般入試」は、数少ないフェアな競争の一つだと思います。もちろん、社会的、経済的に、有利不利は多少あるかもしれませんが、他のものに較べれば、生まれ育った環境に影響されにくく、個人の努力に依るところが大きい、フェアな競争といえるでしょう。公平性、公正性が損なわれている現代社会において、「一般入試」のもつ、この公平性は大切にしていきたい。だからこそ、この競争に対して真正面から真剣に挑んでいる受験生の努力を心から応援したいというわけなのです。

 受験勉強を応援したいと思う別の理由もあります。それは、受験経験そのものが貴重なものだということです。

 現代を生きる私たちには、ただ普通の生活を営むだけでも、雑多な情報や刺激が雨嵐のように降りかかってきます。子どもたちとて例外ではありません。あの誰もがいつも手に持っている小さな機器のせいで、関わらなくても済むような些細な出来事に、日々の時間を奪われてしまっているのです。

 こういう時代だからこそ、一般教養を集中的に身に染み込ませる時期が必要だと思いませんか。例えば、今も昔も欧米の伝統的な大学においては、哲学、修辞、文法、算術などのリベラルアーツ(一般教養)は必修になっていますが、翻って私たちの社会をみつめると、必修科目となっている現代文、古文、漢文、外国語、数学、物理、化学、歴史などの基礎学問を必死に学んでいる高校生たちがいるわけです。これは、日本社会のもつ財産です。社会の価値観を下支えする公共財にもなっていますし、個々人の人生の財産にもなりうるからです。

 基礎学問は、実践的知識と異なり、時事的な情報も、処世術も教えてくれないかもしれません。しかし、それらは、私たちの生きる時代や地域に限らない、万国共通の大切なことを伝えてくれるのです。ノウハウ本や自己啓発本などで簡単に手に入れた実学や知識は数年後には役に立たなくなるかもしれないのに対し、基礎学問は、私たちの時代まで人類が継承してきた共有財産であるので、人間の知恵、叡智がいっぱい詰まっています。これからの社会にはどのような課題が生まれるのか、それらをどのように解決するのか、そのためにはどのように生きるべきなのかということを、時代の制約を越えて、私たちに語りかけてくれるのです。

 現在進行形で必死にもがいている受験生には伝わりにくいかもしれませんが、10代後半の感受性豊かな1、2年間に、受験勉強に集中できる期間があることは贅沢なことです。

 基礎学問に集中することは、不確実、不透明な将来への不安を和らげてくれます。耳に入れなくてもよい余計な雑音を遮断してくれます。そして何よりも、基礎学問の世界にどっぷり浸ることで、世界や時代の「精神」を探求すること、そして自分の内面をしっかりみつめることができます。この経験は、必ずやその後の人生にとって貴重な財産になるでしょう。「推薦・総合型」で重視されがちな、実践力、コミュニケーション能力、あるいは自己表現力などは、大学に入ってから、社会に出てから、しっかり磨けばよいのではないでしょうか。

 君たちのいまの学びのもつ意義を信じてほしい。だから、まだまだ頑張ってほしい。

 こういう思いで、私は、今日も明日も受験生たちの背中を押していこうと考えています。(中篇に続く)

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