この10年、20年を「激動の時代」と考えなければならない最たる理由は、価値観の相対化、流動化が速いスピードで進んでいるということである。政治、経済、国際関係、科学技術の変化などは、いつの時代にもみられる珍しくないものだが、数世紀にわたって絶対的と考えられてきた価値観がいま、音を立てて崩れているのが、いまの時代である。
例えば、自由主義、民主主義。例えば資本主義。例えば国家という存在。
こういう概念は、私たちが生まれたときから当たり前のようにあって、これらに疑義を唱えようものなら変人扱いされよう。私たちは、日常的な社会活動、経済活動を営むにあたって、自然とこれら概念が規定する枠内で思考を巡らす。国際関係でも、ユニバーサルな(万国共通の)価値観であると宣い、自由民主主義、資本主義が実践されていない国々を未熟、野蛮、危険と勝手にレッテルを貼ってきたのが、西側諸国の態度ではなかっただろうか。
しかしそもそも、絶対的な価値観など存在するのだろうか。
自由主義、民主主義、資本主義、国家のような概念は、長い人類史でみれば、ごく最近出てきたものに過ぎない。せいぜい200年、300年前から、しかも一部の国々のみで信奉されているだけだ。
まずは資本主義システムについて、少しだけ掘り下げてみよう。
中世イギリスで「囲い込み」が起こり、長く続いた封建制が崩れた後、土地から解放された農民が自由交換経済に吸収されていった。産業革命が起こると、モノの大量生産が始まり、資本家が生まれる。市民は労働力を提供し、対価としては足らない賃金をもらうだけの存在になっていく。
それ以降の2、3世紀、資本主義はその性格と流行地域を変容させ、人間社会に様々な影響を及ぼしてきた。様々な影響の内容には負の側面もあることを、もちろん私たちは見逃すわけにはいかない。
労働者は搾取され、人間らしさが失われる。大量消費社会、市場経済合理主義の結果として、人間存在の意義が問われてきた。競争原理が働けば働くほど、貧富の差を拡大させるシステムであり、その格差を是正するメカニズムは内在していない。そして、この格差は、南北問題、貿易競争、国際関係不安定化など、国際経済のコンテクストでも語られる。
経済問題だけにとどまらない。自然災害・疫病の頻発化、大型化、そして大絶滅に繋がっていく地球環境悪化など、資本主義システムはこれら人類共通の危機の原因であるだけでなく、それらに対処する解を内在していないことが改めて認識されている。「新しい」あるいは「修正された」資本主義、グリーン・ニューディール政策のような生温い軌道修正では、私たちの存在そのものを脅かす問題の根源にはアプローチできない。
大資本家や政治リーダーたちは、既存システムで恩恵を受けるので腰をあげようとしない。それ以外の99%以上の人々も、このシステムの枠外に出て思考することに慣れていないので、自分事として考えようとしない。早ければ自分の子供の世代、遅くとも孫、曾孫の世代には大災害が起こるという予感をもっているにもかかわらず、問題があまりにも大きなスケールであり、何から手を付けたらよいのかわからないので、何もしないのである。少なくとも自分の生きている間に大洪水は起きないようにと祈りながら。
私たちは、この資本主義という怪物と運命を共にして、人間、社会が蒸発してしまう時代に突き進んでしまうのだろうか。
私は、そうはならないと信じている。これは、根拠のない希望的観測ではなく、人間はそこまで愚かではないという道徳的期待でもない。社会動向を客観的に概観していれば、資本主義の行く末がみえてくる。資本主義は消滅するものではないにせよ、絶対的な価値観、システムではないことが視認される時代は近くまで来ている。いや、すでに出現しつつある。(次回に続く)