8月初旬の琉球大学人文社会学部講義棟。私は、担当クラスの期末テスト試験官として教室にいました。記録的な猛暑のなか、教室の窓からみえる中庭の緑の木立も、きこえる蝉の鳴き声の合唱も、暑さを想起するので意識を向けようとはせず、黙々と解答用紙に向かう学生たちを見守りながら、私は教育のあるべき姿について集中して考えていました。前週まで15週続いていた通常授業では、私は90分間ノンストップで語りっぱなしだったのですが、テストの試験監督として教室にいる時間はほとんど何もすることがありません。だからといって監督者という立場上、書籍やPCなどに目を落とすわけにもいきませんので、こういう時間は、何か一つ事前にテーマを決めて、頭の中であれこれ思索する時間に充てることにしているのです。
子どもが勉強する意味、親が子どもに勉強させる意味をよく問われます。少なくとも私が子どもだった頃は、良い大学に行って、良い就職をして、人並み以上の生活をするためには、勉強を一所懸命やったほうがよいということに何の疑問も抱きませんでした。ごく例外的な才能をもつ子どもを除けば、筆記の一般試験で高得点をとることが良い大学に入学できる唯一の道であるので、いまの勉強が将来何の役に立つのかと考える必要はありません。そういうシステムの中に生きているのだと割り切って、勉強に精を出すことのできる時代でした。ところが、社会情勢の変化に伴い、教育をめぐる状況も変化しており、勉強の意味が見えにくくなっていることは否定できません。令和のいまの時代に、昭和の私たちが信じてきたものを語っても、次のような背景もあり、説得力を持ちにくいのです。
第一に、AIなど情報通信技術が発達する中で社会のカタチが激変し、十年後、いや五年後の将来すら予測し難く、私たち人間が就く仕事の概念がガラっと変わってきたことです。職業観や、それを含む人生観、価値観が多様化し、画一的なキャリアプラン、その準備としての教育プランが描きにくい現状があるのです。
第二に、グローバル化が進み、国境を越える人の移動が物理的にも心理的にも容易になる中、そして、日本の国際社会における相対的な地位が下がる中、国内の教育システムに固執する必要が低下していることです。日本の教育行政の照準がどこにあるのか、どこを目指しているのか見えにくいので、志ある若者が国外の高等教育を求めていくことに何ら不思議はありません。
第三に、日本の受験制度が多岐化していることです。ここ二、三年の短期間だけでも、従来主流であった筆記中心の一般入試の合格者定員が減り、その代わりに総合型選抜や学校推薦型選抜のような、人間性や過去活動歴などを面接などで評価される入試の合格者定員が増えています。
以上の変化の良し悪しは別としても、このような状況に私たちは置かれているので、中学、高校、大学の勉強の成績を上げることはもはや至上命題ではなくなっているのです。中学でオール5の成績をとらなくても、高校で模試A判定をとらなくても、希望の大学に合格する手段は多く用意されているからです。さらに言えば、良い大学に行っても良い会社に就職できるとは限りませんし、良い会社に就職しても良い人生が送れるとは限りません。そもそも、良い大学、良い会社、良い人生とは何でしょうか。現代はますます、人それぞれで「良い」「悪い」の基準が異なってきているので、良い大学、良い会社という表現は適切ではないのかもしれません。このように考えていくと、子どもが勉強する意味、子どもに勉強させる意味というのが見えにくくなっているのは納得できます。同時に、教える側の学校、教師もほとんどが明確な答えを持ちあわせていないのではないでしょうか。
そもそも教育は、それに関わる者の間で意見が異なって当然であるともいえます。政治や社会について様々な意見があるように、教育についての考え方も多種多様でよいのです。時代の要請はたえず変化するので、古今東西、これが絶対的に正しいといえる理想の教育像は定められません。
琉球大学での期末試験より数日後に、今度は自分の塾で、中学生の模試の試験官をしていました。そしてそのときも、同じようなことを考えていました。大学のときは一コマの短時間でしたが、そのときは、英数国社理の五教科分で時間が十分にありました。教育には絶対的な正しい解はないと結論付けるのは簡単ですが、すべて相対的なものだと悟るかのようなニヒリズムに陥ってもいけません。そのような姿勢は、教育の意義の否定につながるからです。この点、私は、教育者一人ひとりが置かれた立場-それは時代背景や国・地域や教育機関の性格などですが-に鑑みて、それぞれの信念をもって、その信念を実現するような指導法を追求するということが、教育のあるべき姿ではないかと考えるのです。学校、大学、その他の教育機関、あるいは私塾やコミュニティ・センターなどが、それぞれ教育理念をもち、明示していく。教える側にも、教わる側にも、学びの内容の自由があることが前提ですが、教える側の教育理念に共感した生徒が、その教育機関に入学していくことが健全だと思います。義務教育などの公教育には、国の統一された教育理念が通底していなければならないですし、そのことについては次に述べますが、いずれにせよ、教育のあり方が多様でダイナミックであれば、そこから人材が送り込まれる社会全体も多様でダイナミズムをもつことになり、教育と社会の好循環が生まれると思います。
公教育とは、社会の「鏡」であり、すべての子どもたちが受けるもの、将来の社会をつくるものとして重大なテーマです。したがって、例えば、公教育は「個」のための教育か「社会」のための教育か、権利なのか義務なのか、あるいは公教育の役割は、自立する個人を育てることなのか、国家に奉仕する個人をつくることなのか、他者と協調し組織の中で力を発揮する個人をつくることなのかなど様々な議論がこれまで展開してきました。私は、教育の幅広い効用ゆえに、これら意見は対立的ではなく、むしろ相互補完的、相乗的であるべきと考えていますが、公教育のあるべき方向性についてもう少し具体的に考えてみたいと思います。
社会の「鏡」としての公教育ですので、社会の変化について改めて別の角度から触れますと、かつて家族や地域や企業などの組織に強く帰属していた人間がそれらから距離を置き、個人として自由に生きる度合いが強まっているのが現代社会の特徴です。戦後高度成長期に若者が地方のコミュニティから都会に向かい会社人間としてモーレツに働いていた時代、バブル経済後に価値観が多様化しフリーランスで働くのが珍しくもなくなった時代などを経て、個人と公共の関係は次第に弱まり、国家の一員、地域の一員、所属組織の一員として生きている意識は希薄になっていきます。個人が自由に生きられること自体はよいことですが、ここで「自由」の意味を丁寧に考える必要がありそうです。つまり、私たちは社会的動物ですので、私自身の自由を他者から尊重して欲しければ、まず私が他者の自由を尊重しなければならないですし、また、他者から承認されてはじめて私は自由を実感し、心豊かに生きることができるということを忘れてはなりません。言い換えると、自由の相互承認が実現されていない社会においては、個々人が心豊かに生きることは難しいということです。先程述べたように、現代は個人の公共意識が希薄化していて、ともすれば自由が傍若無人、勝手気儘な振る舞いに暴走してしまうおそれがある時代です。したがって、すべての個人の自由を保障し、すべての個人が心豊かな人生を追求することを保障するための社会を、不断の努力で維持しなければならないのであり、そのために、いまこそ、公教育は公共の意義を強調しなければならないわけです。
現在の日本の公教育に求められる理念が少しずつみえてきました。すなわち、自由な生き方を追求できる個人をつくると同時に、すべての個人の自由を尊重し合える社会をつくることを、公教育は目指さなければなりません。この教育理念を、社会の全構成員が共有することで、ルソーが言うところの「一般意志」が確かなものになり、個人の利益のための自治が行われることが可能になるのです。ルソーが社会論と人間論・教育論を表裏一体のものとして扱ったのと同様、現代の私たちにとっても、社会を考えることは人間を考えることであり教育を考えることなのです。だからこそ、「最後は結局、教育しかない」というお決まりのフレーズが出てくるのです。
ルソーの話を出したので、彼の教育論の名著『エミール』についても触れます。同著では、子どもの成長過程における各段階での教育の役割について書かれていますが、子どもはまず自分の欲求を自覚するところから始まります。「自然」を教師として子どもの心に欲求が生まれることを、大人たちは静かに見守らなければなりません。小学校・中学校の教育がこの段階にあたると思います。やがて、生存的欲求が社会的欲求に変わるにつれ、欲求を実現するためには一定の知識や技能が必要になることを知り、それらを身につけるよう努力するようになります。中学校・高校の教育がここにあたります。ここでも大人たちは必要以上に介入してはいけません。子どもたちが知識や技能を吸収、習得する際には、学び方だけを伝えて、内容は主体的に学んでもらうことが効果的だからです。そしてこの後に、社会的欲求が社会的価値に昇華する段階に移るわけですが、高校・大学の教育がここです。人間は自分の存在が社会的に認められることを希求する動物なので、自分の欲求に基づく行動が社会で何の役に立つのかを自問するわけです。自分の目指す価値の明確化、具体化を図り、そのことで自らの心も充実させるのです。誰もがこの自己実現を自由に行うことのできる社会、その自由を尊重し合える社会をつくることが、教育が目指す理念なのです。特に公教育は、すべての子どもの公共意識を育む過程で、自由を尊重し合える社会をつくることに奉仕する使命をもつといえます。
公教育は「個」のための教育か「社会」のための教育かという問題に対し、対立ではなく相互補完的、相乗的に考えるべきだということは先述したとおりです。すべての個人が、生まれた環境や社会的、経済的状況に左右されずに、等しく基礎教育を受けて、自己実現を自由に行うための能力を身に付けるために公教育はあるべきですし、同時に、他者の自由を尊重し合える社会を公教育がつくらなければならないと考えます。
ここで、後の議論で必要にもなるので、明確にしておかなければならない点があります。先程から使っている「社会」の範囲についてです。特定の公教育が及ぶ範囲としての「社会」とは何なのでしょうか。私は、相互承認されるべき「自由」、あるいは社会正義などの基本的価値観の内実について一定程度の共通認識が認められる集合体が、一つの公教育が及ぶ社会の範囲であると考えます。「自由」や「正義」などの内実が、時代や地域によって異なるのは仕方のないことですが、それでも、言語、文化、歴史、宗教など人間存在の根幹にある要素を共にする集団の内部であれば、ある程度、共通認識は存在します。そして、このような共通認識が存在する集団、意味空間を共有する集団のひとつの単位として近代主権国家があげられるのです。言語、文化、人種、宗教などのアイデンティティは複雑に絡み合うので、国家アイデンティティとこれら他基準によるアイデンティティが一致しないことも多いですが、それでも、日本の公教育、米国の公教育、エジプトの公教育、アルゼンチンの公教育といった形で、公教育と社会との関係は、国家単位で語ることが合理的です。つまり、主権国家ごとに公教育が形成されるということです。
このように、日本の公教育は、日本国家という社会において、日本人の考える自由や社会正義を促進するためにあるわけですが、かつては、国、地方自治体、大企業などが社会正義を実現する上で主要な役割を担っていたので、そのような組織に奉仕する人材をつくることが公教育の一つの目標地でありました。現在もそのような側面はありますが、個人がより自由になり、価値観が多様化して、社会正義を実現する上での一人ひとりの市民の役割が高まっています。だからこそ、大きな組織に任せることなく、どのような社会を自分たち自身の手でつくっていけばよいのかという公共意識を、公教育の指導課程で個々の子どもたちに強調することが必要なのです。
日本以外の公教育についてはここでは触れません。欧州各国のように意味空間を共有する単位が主権国家と重ならない場合や、後進国のように意味空間、共通認識がそもそも成熟していない場合のほうがむしろ多いので、簡単には論じることができないからです。私は途上国での開発支援業務に関わってきた際、教育分野も深く担当したことがありました。彼らは教育が最重要課題であると主張するのですが、それではどのような教育が必要なのかについて、彼ら支援を受ける側も、私たち支援をする側も、よくわかっていないことも多いというのが率直なところであり、人類社会全体における教育の意義を論じるには多くの紙面が必要になるので、別の機会に詳しく述べてみたいと考えています。